被災地教会と外部の教会や宣教団体との関係

神の先見と憐れみ中で

キリスト教会「石巻祈りの家」代表 阿部 一

 私たちの群「石巻祈りの家」は、大震災3年前の2008年に、それまで多くの問題を抱えてきた教会がそれを解決できなかったために多くの教会員が教会を出た。それを知った神学校長から「それらの人たちが信仰を失わないようにあなたの家で『家の教会』を始めなさい。」と勧められて「聖書の神を神として自分の人生を誠実に生きる群れ」を目標に発足した信徒だけの群である。

しかし、今、これまでの歩みを振り返るときに、この地域にキリスト教会がなかったので、この大震災で主のしもべとして被災者に寄り添う支援活動拠点のために神が先見と憐れみによって備えて下さったのだと感謝している。

我が家の前にある養父母の残した平屋は、震災前にリフォームしていた。これも小さい群の集会所としての神の備えの一つであった。そこで、礼拝、祈祷会を通して、もう一度聖書を学び直しながら信仰を確認し、地域に福音を伝えるために「教会案内」準備していたときにあの大震災は発生した。

一晩を市営墓地に避難し、翌日から約3週間、石巻の隣町にある従兄弟の家で家族3人が避難生活をしていた。電気が復旧したという連絡で戻って半壊した自宅を整理していた翌朝、信仰告白をして直ぐに石巻に就職が決まり、3年間私たちの群で信仰を育み、その後転職のために仙台に戻った姉妹が、母教会の宣教師ディーン師と一緒に支援物資をワゴン車に満載してやってきた。ディーン師の「一緒に支援活動をやりましょう」との申し出に、自宅の整理は妻と次男に任せてその日から支援活動に取り組むことになった。

この震災支援活動でも、人間としても、信仰者としても素晴らしい宣教師を私の同労者として、神は備えておられた。今も続くディーン師との神と人に仕える支援活動の協働は、75歳を迎えた私には大きな祝福に満ちた神からのプレゼントである。

ディーン師は、その日から連日、地震で壊れた悪路を仙台からこの地の被災者のために、支援物資をワゴン車に満載して、私たちの教会に運んでくれた。私たちの地区は、直接の津波の襲撃はけなかったが、ライフ・ラインはすべて壊れ、揺れと1mの海水浸水によって、車を始め台所器具、衣類、寝具類はすべて使用不可能になった。地区内には商店はなく、近隣の商店街は津波とヘドロの被害で機能せず、移動手段が失われた状態だったので、私たちの活動は地区被災者への食料や生活必需品支援が中心となった。

そして、ディーン師の幅広い人間関係を通して、サマリタンズ・パース、クラッシュジャパン、日本世界飢餓対策機構を始め大きな国内外の支援団体や宣教団、教会、宣教師と牧師、クリスチャンがつながった。さらに私のこれまでの信仰生活でお世話になった教会、兄姉、友人、知人、元同僚も支援の協力を申し出てくれた。加えて、自らも支援に立ち上がった私たちの群のメンターの仙台バプテスト神学校(SBS)の森谷正志校長には、物資支援の手配だけでなく、国内外のボランティアや支援を申し出て下さった方々を私たちの活動につなげて下さり、さらに支援における様々な問題の対処にも相談に乗っていただいた。

地区内の生活の落ち着きを見て、ディーン師はより深刻な被害を受けながらボランティがあまり入っていなかった石巻工業港に近い新館・浦屋敷地区に入り、約3年間この地区のヘドロ上げと家屋清掃に先ず取り組んだ。この地区は海岸から500m辺りまでは壊滅的で、そこから国道までの間の家屋は約2mの津波とヘドロに襲われていたが、多くの家族は2階で生活していた。ディーン師の家屋に関する卓越した知識と手を抜かない作業は地区内の被災者の注目を集め、その人間としての誠実さも評価されて多くの被災者から自宅の清掃と修復の依頼を受けるようになった。そして、その作業結果によって大きな信頼の輪を広がった。ディーン師は初めから生活拠点の家屋のリフォームまで考えていたが、莫大な経費を要するために当初は実行できなかった。サマリタンズ・パースが家屋リフォームの資材と工事関係者の支援を決定すると同時に、他の支援団体や国内外のキリスト教ボランティアの協力を得て、多くの被災家屋のリフォームまで進めることができた。さらに毎月2回程度炊き出しや多くのミュージシャンの協力によるコンサート、フラダンスなどのイベント開催の役割をディーン師は担った。私は、復旧に約2年を要した大きな農地の復旧をボランティアと取り組みながら、この地区と更に2地区、そして教会近くの公園に建設された仮設住宅入居者のための物資支援の計画や手配を担当した。

物資支援では、上記の大きな支援団体の他に、一度私たちのチームに支援に来てくれた教会やクリスチャンが、自分たちの活動や支援の必要を紹介するブログ記事を発信していたので、その情報を知った新しいグループや個人へと支援の輪が広がった。次第に、定期的に支援に来てくださるグループも増え、支援物資の情報や問い合わせも増えていった。一方、被災地の時間経過の現状と必要を的確に支援者に伝えるために、私はインターネットや写真を載せた教会発行の月報を活用した。また、献金や支援物資については神から預かっているものとして、領収書や礼状で公明で適切な管理を心掛けた。このことがその後も継続して支援を続けてくださる信頼に繋がったと考える。

私たちは支援の理念として「被災者の必要をリサーチし、必要なものを、必要な人に、必要なだけ」と方法、「支援を求める被災者家族 (家族構成・性別・サイズ) の名簿と班を作り、支援ニュースを流し、被災者と一緒になって一人一人に必要に応じたきめ細かい支援(むしろ、分かち合い)を通してコミュニティの再生を図る。」を目標とした。

この理念は、ワールド・ビジョン・ジャパン(WVJ)とConverge Worldwide Japan(John Mehn宣教師を通して)の理解を得ることとなり、時間経過の中で、支援物資を被災商店から購入し、それを被災者に支援することで二重の支援ができるという私たちの考えを推進するために必要な現金支援の道に繋がった。大きな支援団体は震災2年後には撤退したが、上述の支援が見える方法を納得してくださった多くの支援者や教会が、月1回の生活消耗品4〜10品目や新米、正月用の餅類支援と冬期間月2回の灯油支援を、教会に隣接する仮設住宅入居者に今も続けることができる資金源になっている。

物資支援に関しては、もう1つ重要なことがある。それは季節の変化とその必要の先読みである。私は、夏に冬の暖房器具の支援について大きな支援団体に打診したが、支援不可の返事であった。しかし、この地住む私たちは、冬に暖房のない生活は考えられない。そこで、確信をもって、「4種の暖房器具から仮に支援されるとすれば何を望むか」の事前調査をしておいた。その結果、秋に支援可能の情報が入ると、その時期にはもう購入不可能な暖房器具を直ちに申請家族に支援できた。

石巻地区には多くのキリスト教団体が支援に入り、東北HELPによって最初の段階で2回ほど全体の情報交換会がもたれた。その後ICC(石巻クリスチャン・センター)のスティーブン・中橋兄の呼びかけでIMN(石巻ミニストリーズ・ネットワーク)が月1回のペースで開催され、支援活動をしている各団体や教会の情報交換とイベントなどの協力、そして市民の救いと宣教活動のために祈り合う時が現在も継続してもたれている。MMN(宮城宣教ネットワーク)にも要請で2回ほど出席したが、多忙で続かなかった

甚大な大震災であったために、国内外から到底書き切れない膨大な温かい支援をいただいた。支えてくださった皆さんに心からの感謝をしたい。そして、この活動で、いかに地元のリーダーが各時点での必要を的確に伝えるか、地区内の教会やキリスト教支援団体が協力して1つとなり、全体を見渡しての適切な指針のもとで活動するか、さらに支援を受ける側が金品共に適切な管理をする大切さを教えられた。それらは両者の信頼の基になるからである。

 

Facebooktwittermail