支援のネットワークをどのようにつくるか(1)

福島県キリスト教連絡会の成立プロセス

福島県キリスト教連絡会前代表 木田惠嗣

 

オールキリスト教を看板とする福島県キリスト教連絡会成立のプロセスを振返り、全県的な教会ネットワークが形成されるに至った原動力について考察してみたい。

1.先人たちの遺産;

(1)福島県放送伝道を支える会

福島県内には、これまで、全県的な牧師会や教会ネットワークは組織されてこなかった。それは、福島県が、北海道、岩手に次いで、日本で三番目に広い県であること、それぞれの地域の歴史的地理的背景がずいぶん異なるといったことに由来するのかもしれない。しかし、唯一、福音派の教会が、放送を通して伝道するために組織した「福島県放送伝道を支える会」が、40年ほどの歴史を刻んでいた。「福島県の放送を私たちの手で」という大きなビジョンを掲げて、ノルウェーからの宣教団体である東洋福音宣教会の宣教師、牧師たちが一丸となって、福島県内の諸教会を訪ね、ラジオ放送への協力を呼びかけ、1年余りの準備期間を経て、1970年3月29日(日)より、PBA(太平洋放送協会)制作の「世の光」が、ラジオ福島より放送開始となった。当初、小野芳枝師(東洋福音宣教会・好間キリスト福音教会)の献身的な奉仕と、東洋福音宣教会の経済的、実際的リーダーシップのもとに会が運営されてきたが、円高による海外資金の目減り、高齢となった小野師の引退といった危機を通して、県内各地区の教会ネットワークが強化され、委員会がリーダーシップを発揮するようになっていった。このような先人たちの貴重な献身と努力の遺産なくして、福島県キリスト教連絡会は成立しなかったであろう。

(2)阪神・淡路大震災の経験や核問題への関心など;

福島県キリスト教連絡会の成立には、阪神・淡路大震災を経験した日本イエス・キリスト教団の支援チームや、核問題に関心を寄せてきた日本同盟基督教団の支援チーム、クラッシュ・ジャパンの存在を忘れてはならない。多くの支援団体が放射能禍に見舞われた福島県での支援活動を見合わせる中、東日本大震災の翌日には、日本イエス・キリスト教団の支援チームが関西から同教団の東北宣教センター「須賀川シオンの丘」に到着し、支援活動が開始された。また、日本同盟基督教団の支援チームは、原発の水素爆発のニュースに揺れる中、救出チームが活動していた。各チームの動きの速さや、手際の良さは、阪神・淡路大震災の経験や、核問題への関心があってこそだったと思う。また、真っ先に福島県内の支援に乗り出したクラッシュ・ジャパンの働きも特筆すべきです。他に先駆けて動き出したこの支援チームの働きが、各地区のネットワーク形成を触発したと言って過言ではない。また、各ネットワークの成立の過程に、中越地震などの支援活動を経験した方々が存在した事にも目を留めたい。

2.福島県の被災状況;

しばしば、福島県は、三つの地域に分けて紹介される。海岸沿いを「浜通り」、阿武隈山地と奥羽山脈に囲まれた、中央の高地を「中通り」、奥羽山脈の西側を「会津」と呼ぶ。

今回の震災では、浜通りは「地震」「津波」「放射能」と三つの災害を経験した。家や家族を失った被災者の支援が急務となり、被災者の支援活動が大きな柱となった。中通りは内陸部なので、津波の被害はなかったが、放射性物質を含んだプルームが流入し、避難地域以外で最も放射能の影響を受けた。そのため、避難者の支援とともに、子どもたちの保養支援活動が始まった。会津地方は、原発から100キロメートル以上内陸に入った地域であったため、浜通り、中通りに比べると被害は軽かったが、地震の被害も、放射能の汚染もあったし、大きな風評被害があった。原発周辺地域から避難してきた人々の支援活動が他地区にやや遅れて始まった。それぞれの地域ごとに、必要が異なり、地域の特性に従ってそれぞれの地域の震災支援教会ネットワークが形成されることになった。

3.地域ネットワークの成立から「福島県キリスト教連絡会」へ

東日本大震災当時、筆者が在住していた福島市内の教会によって形成された「ふくしま教会復興支援ネットワーク」の成立経過を詳述したい。2011年5月に、福島市内の放送伝道を支える会の集まりがあった。震災直後の混乱の中で、集まることが出来たのは三教会のみであった。その会議の後、出席者から、「福島市内には、受け皿となる教会のネットワークがないので、支援団体が支援を申し出ていても、何も出来ない状況。何とかしなければならないのではないか?」と提案された。「それでは、まず、祈ることから。」ということで、5月25日、第1回の祈り会が開催されることになった。その後、6月8日、7月8日と祈り会が積み重ねられ、この3回目の祈り会の席上、正式に、「ふくしま教会復興支援ネットワーク」を立ち上げる決議がなされ、代表を私が引き受けることになった。そこには、偶然にも、DRCネットやクラッシュ・ジャパンのスタッフの参加があった。DRCネットからの放射線量計の提供がネットワークの形成には大きな力となり、9月に、日本イエス・キリスト教団笹谷教会で開かれたふくしま教会復興支援ネットワークの会合では、①除染。②子ども保養(当時は週末疎開と呼んでいた)。③避難所支援。④安全野菜配布。の四つのプロジェクトをスタートさせることを決定し、それぞれの担当を決めた。毎月のネットワークの会合では、それぞれのプロジェクトの進捗状況を報告し、その情報をメンバー全員が共有できるように配慮した。当時、一番、気を遣ったのは、情報を、各教会が平等に受け取ることが出来、不公平感が生まれないようにという事であった。各教会の得意分野での取り組みが継続され、アイデアが積み重ねられる中、仮設支援活動と子ども保養プロジェクトとに次第に活動が絞られた。特に子ども保養プロジェクトは、福島市内の教会関係の子どもたちを対象とした働きから、さらに枠を広げて、福島県内の保養を希望する子どもたちを対象とする「ふくしまHOPE プロジェクト」へと成長していった。

福島市内で、このような形で教会の支援ネットワークが形成されていく間、いわき市でも、オールキリスト教の教会ネットワークが形成されていった。いわきCERSネットワークである。後に、いわきCERSネットワークは再編され、所属する教会の枠が小さくなったが、カトリック、聖公会、NCC系の教会、福音派の教会が名前を連ねた教会ネットワークの形成は、非常に衝撃的であった。

各地域の支援活動の中心的な働きをしていた牧師たちが、福島県放送伝道を支える会の委員会メンバーであったところから、福島県放送伝道を支える会の委員会は、自然に各地区の支援活動の情報交換の場となり、福島県キリスト教連絡会の設立につながった。

2011年11月14日、福島県キリスト教連絡会の設立式が須賀川シオンの丘で行われ、以後、福島県の支援活動の情報交換の場として用いられていった。

4.ネットワーク形成のダイナミズム

福島県キリスト教連絡会が組織されるに至ったプロセスで、大きな原動力となったポイントを整理して、筆を置きたい。

第一に、神の摂理の御手の中で、震災以前からの「福島県放送伝道を支える会」という全県的ネットワークが存在した。第二に、原発の事故で、多くの支援団体が福島を敬遠する中、日本イエス・キリスト教団の支援チームや、日本同盟基督教団の支援チーム、クラッシュ・ジャパンが福島支援に乗り出し、支援活動の触媒となった。第三に、ネットワーク内での、平等な情報共有、各自の主体的な活動の自由があった。第四に、福島県の災害が、地震・津波、放射能災害と、未曾有の大災害で、教会が様々の違いを乗り越えて一致しなければ、太刀打ちのできなかったということ。こんな四つのポイントが、福島県キリスト教連絡会形成の原動力になったと振り返っている。

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