ローザンヌ運動におけるホーリスティック・ミニストリーの理解

日本ローザンヌ委員会委員長 倉沢正則

はじめに

ローザンヌ運動は、1974年スイスのローザンヌにおいて開かれた第一回ローザンヌ世界宣教会議(以下、「ローザンヌ」)から生まれた福音派クリスチャンの世界宣教ネットワークである。この会議が注目されるのは、福音派の結集とその共通の宣教理解にあるが、より具体的には、これまでの「宣教は伝道である」ことから「宣教は伝道と社会的責任である」と、その宣教理解をより「ホーリスティック(全体論的)」にとらえ直したところにある。この「ホーリスティック」の意味合いをその後のローザンヌの二回の宣教会議(1989年の「マニラ」と2010年の「ケープタウン」)を見ながら検討し、その理解を得たい。ちなみに「ローザンヌ誓約」では、「世界伝道は、全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすことを要求する」と定義している(ちなみに、邦訳の「世界伝道」は原文では”world evangelization”であり、”world evangelism”ではない。この”evangelization”は、福音を広めるための全行程を示唆する意味合いがある)。この定義には、「全(”whole”)」が教会、世界、福音のすべてにかかり、その全体性を特徴づけている。

 

1 「ローザンヌ誓約」にみるホーリスティック・ミニストリーの理解

「ローザンヌ」は、宣教と伝道における福音派のアイデンティティと団結を高らかに表している。「ローザンヌ誓約」(以下、「誓約」)の第1項の「神のみ旨(神のご目的)」において、三位一体の「神は、み国を広げ、キリストのからだを建てあげ、み名の栄光のために、この世界の中からご自分のために一つの民を召しいだし、その民をご自分のしもべとして、また、証人として、この世界に遣わしてこられた」として、教会の宣教が語られている。世界に遣わされている教会を語ることは、教会の宣教を語ることだとする。教会の宣教とは、「ご自分のしもべとして、また、証人として、この世界に遣わされた」ことであるから、この「しもべ」として、また、「証人として」という二つの働きが宣教の内容とならなければならないと指摘する。この二点が、「誓約」第4項の「伝道の本質」と第5項の「キリスト者の社会的責任」で詳しく取り上げられるのである。

 

「伝道の本質」では、伝道とは「よきおとずれを広めること」とされ、一人一人が「神との和解を受けるように説得する目的をもって、歴史的、聖書的キリストを救い主また主として告知することである」と語られる。福音を伝えることを、「広める」、「告知する」、「公布する」と幾つかのことばを用いて、「ことばで、公に宣言する」性質を言い表している。そして「伝道は、キリストへの従順、ご自身の教会への加入、この世界での責任ある奉仕などの結果を含むものである」と、教会の建てあげと社会的責任を示唆している。「キリスト者の社会的責任」では、キリスト者は、すべての人の創造者であり審判者である神を覚え、「人間社会全体における正義と和解、またあらゆる種類の抑圧からの人間解放のための主のみ旨に責任を持って関与すべきである」とし、神の像に似せて造られている人間は、「人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなくそれぞれ本有的尊厳性を有する」ゆえに、尊敬し合い、仕え合うべきだと語っている。

 

「キリスト者の社会的責任」では、福音派が「誓約」を起草するに至る、背後にある「宣教観」を意識して、「たしかに、人間同士の和解即神との和解ではない。社会的行動即伝道ではない。政治的解放即救いではない」と宣教の「社会・政治化、人間主義化」(当時の世界教会協議会の宣教観)を否定するとともに、「しかしながら、私たちは、伝道と社会的政治的参与の両方が、ともに私たちキリスト者のつとめであることを確認する」とした。さらに、「救いの使信は、同時に、あらゆる形の疎外と抑圧と差別を断罪する審きの指針でもある」とし、勇断を持って悪と不義を告発して、神の正義を押し広めてゆくこと、そのために、個人的責任と社会的責任の全領域で、キリスト者自身を変革してゆくと誓約したのである。「誓約」では、当時の世界情勢との兼ね合いで、疎外、抑圧、差別という社会悪への「社会的政治的参与」に力点が置かれている。

 

「誓約」のホーリスティック・ミニストリー理解でもう一つ上げておくべきことは、「誓約」第6項から第9項までの「教会と伝道、伝道協力」で、ここでは、キリストが父から派遣されたように、キリストによる教会の派遣は、この世界に浸透することであり、未信者の社会の中に充満することとされ、その宣教活動の中で伝道が「第一」のこととされている。さらには教会こそが「神の宇宙大の目的の中心であり、福音伝播のために神が定められた手段」であるとされた。ゆえに、教会は聖書信仰に立って、交わりと、働きと、あかしにおいて一致し、地域的な協力と機能上の協力を発展させることが求められている。世界への浸透には伝道活動と社会的活動の両方を必要とするが、「誓約」では伝道の優先性が記述された。それは、全教会が動員されない限り、全世界に福音を届けることができないこと、そして、教会が「神の宇宙大のご目的の中心」という聖書の真理にあると言う。この観点から、伝道の責任がキリストのからだなる教会全体のものであることが示され、いまだに福音に接していない人々への伝道的責務が訴えられた。教会の伝道協力では、「教会と超教派の諸機関」、「外国人宣教師」が取り上げられ、また、伝道的責務の緊急性として、「いまだに伝道されていない人々」と「職もなく貧苦の中にある多くの人々」が取り上げられている。

 

2 「マニラ宣言」にみるホーリスティック・ミニストリーの理解

「マニラ宣言」(以下、「宣言」)は「マニラ」の結実である。その副題は、「全世界に福音をあますところなく宣べ伝えるために召し出されているすべての教会」とあり、「誓約」の世界伝道の定義がそのまま継承されている。「宣言」は「21の確認事項」が示された後、その特質として、「A全福音」、「B全教会」、「C全世界」と類別してそれぞれの内容が言い表された。「Aあまねく福音を伝えよ」は、人類の全的堕落のゆえであり、その罪は人間のすべての領域(神と個人、社会、他の被造物)に影響を及ぼしているからである。「ホーリスティック・ミニストリー」の観点からは、「四 福音と社会的責任」の項で、「誓約」の「伝道と社会的責任」の表記と異なることに注目したい。そこでの書き出しは、「福音は、信仰者の生きた生活を通して、目に見えるものとならねばならない。神の愛を説く時には、愛の奉仕が伴わなければならないし、神の国を宣べる時には、正義と平和が伴わなければならない」と宣言して、「ことばとわざ」の同伴性を謳った。さらにイエスの神の国の宣教がことばだけでなく、「恵みと力あるわざ」によって証しされたように、それを担うキリスト者のミニストリーにも「言葉と行為」の両面性が指摘され、「よきおとずれと、良いわざは不可分である」とされた。そして、社会的に弱い人々への配慮と奉仕や、神の国と相容れないすべての悪への預言者的な警告について言及し、「聖書的な福音は必ず社会的な関わりを持つこと」を確認するのである。この理解の背景には、「誓約」の「伝道と社会的責任」の関係性を問う「グランド・ラピッズ協議会」(1982年)と世界福音同盟主催の「人間の必要に応える教会」に関する「ホイートン協議会」(1983年)がある。後者の「ホイートン声明」は、福音のつとめ(ミニストリー)と神の国の関係を表し、神の国を、「今ありやがて来るものであり、また、社会的なものであり個人的のものであり、また、身体的なものであり霊的なものである」(声明49)と、その全体的視野を提示した。その上で、「教会の宣教には、福音の告知(”proclamation”)とその実証(”demonstration”)が含まれる。私たちは、伝道し、人の目前の必要に応え、社会変容を急がねばならない」(声明26)と表明して、「福音の告知とその実証」こそが、「福音のつとめ(ミニストリー)」としてとらえたのである。この理解が「宣言」への布石となっていると思われる。

 

「B全教会」における「ホーリスティック・ミニストリー」の観点では、「六 あかしの働き」で、すべての信徒にもう一度光が当てられ、「万人祭司制」というだけでなく、「信徒のあかし」により積極的な評価を与えている。それは、教会はもちろん、家庭や職場、さらには宣教師という身分では入れない福音を閉ざす国への信徒によるあかしが求められるからである。また、世界的な宣教のわざにおいて、女性の賜物が用いられており、その役割が「マニラ」では強調され、牧会者や教職者としての女性の役割を含めて、「女性の賜物も男性の賜物も共に用いられなければならない」と宣言された。「C全世界」においては、現代社会における「都市化」とそれが及ぼす「貧困の問題」に焦点が当てられ、「都市宣教」の神学的な研究と取り組みが表明されている。

 

3 「ケープタウン決意表明」に見るホーリスティック・ミニストリーの理解

「ローザンヌ」から36年、「マニラ」から21年後の「ケープタウン」(2010年)は、折しも「エジンバラ世界宣教会議」(1910年)から100年にあたる節目の年である。世界のキリスト教勢力は20世紀後半からアジア・アフリカ・中南米へと移り、キリスト教会は全世界的な成長を見せてきた。他方、21世紀の世界は「グローバル化、デジタル革命、世界における経済的・政治的勢力の均衡の変化がもたらす影響」のもと、特に、「世界的貧困、戦争、民族紛争、病気、生態学的危機、気候変動など」の危機に直面する時代を迎えている。南アフリカのケープタウンはこれらの変化を映し出す世界の縮図でもあり、「ケープタウン」の果実としての「ケープタウン決意表明」(以下、「決意表明」)は、「誓約」や「宣言」を継承しつつ、このような世界にキリスト教の本質である「愛」をもって寄り添い、向き合うものとなっている。

 

「決意表明」の「ケープタウン信仰の告白」は、「神の宣教(”mission”)の業は神の愛から流れ出る。神の民の宣教(”mission”)の業は、神と神が愛するすべて(“all”)のものに対する私たちの愛から流れ出る。世界宣教(”World evangelization”)とは、私たちに向かって、また私たちを通して、神の愛が流れ出ることである」という告白から始まる。「神と神が愛するすべてのもの」が、神の民である教会が愛し仕える(ミニストリー)対象なのである。「決意表明」は、「私たちの愛の核心(”passion”)」として、「全福音に対する私たちの愛」、「全教会に対する私たちの愛」、「全世界に対する私たちの愛」という三項目でそのホーリスティックな意味合いを説明している。そこでは、罪と悪に損なわれるすべての神の被造物のあらゆる次元に対応するキリストの福音(全福音)と、地上のあらゆる国、歴史上のあらゆる時代からキリストに贖い出された神の民(全教会)と、神がその救いのためにひとり子をお与えになるほど愛された世界(全世界)が表明されている。この「三重の愛」をとらえて、「私たちは、全教会であること、全福音を信じ、それに従い、それを分かち合うこと、すべての民を弟子とするために全世界に出て行くことを、今新たに決意をもって表明する」として「決意表明」が構成された。

 

「決意表明」の特質は、何と言ってもパートIIの「ケープタウン行動への呼びかけ」である。6つの項目でまとめられていて、「全福音に対する私たちの愛」は、「IIA多元的でグローバル化した世界にあって、キリストの真理を証しする」と「IIC他の信仰を持つ人々の中でキリストの愛を生きる」行動へと、また、「全教会に対する私たちの愛」は、「IIEキリストの教会を謙遜と誠実と質素へと呼び戻す」と「IIF宣教における一体性を目指す、キリストの体の内部における協力」行動へと、そして、「全世界に対する私たちの愛」は、「分断され、損なわれた世界にあって、キリストの平和を築き上げる」と「世界宣教のためにキリストのみこころを見分ける」行動へと呼びかけられ、それぞれに具体的なミニストリーへのチャレンジが表明されている。「決意表明」は「宣言」の「神の愛を説く時には、愛の奉仕が伴わなければならないし、神の国を宣べる時には、正義と平和が伴わなければならない」という言明を真摯に受け止め、21世紀の今日の状況に即した具体的なミニストリーを取り上げ、そこへの献身を促すものとなっている。

 

おわりに

「ローザンヌ運動」における宣教観とは、神のかたちに創造された人間とその「神とその他の被造物」との関わりのあらゆる次元(全人と全領域)を取り扱う「神の国の福音」を指し示し、そこに表されたキリストにある神の愛を、あらゆる時代とあらゆるところの神の民である教会の一致と協働を通して、罪と悪によって分断され損なわれている世界のあらゆる領域に、「言葉と行為」をもって表し、そこに和解と正義と平和をもたらして、神に栄光を帰するものであると言えよう。

(東京基督教大学教授)

 

<引用文献>

「マニラ宣言」『福音主義キリスト教と福音派』宇田進著、いのちのことば社、1993年。

『ケープタウン決意表明』日本ローザンヌ委員会訳、いのちのことば社、2012年。

ジョン・ストット『現代の福音的信仰:ローザンヌ誓約』宇田進訳、オランダキリスト教文庫、1989年。

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